いちご畑よ永遠に

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If You Could See Her - Emcee from "Cabaret"

youtu.be

ミュージカル『キャバレー』より。エムシー(MC、つまりマスターオブセレモニーのこと)のナンバー。

通称ゴリラソングとも呼ばれるこの曲。一見コミックソングのように見せかけて最後の最後で観客を震撼させる問題曲です。この曲、YouTubeを見てみたらコメント欄で議論が紛糾していてびっくりしました。どうもこの曲を「ユダヤ人を馬鹿にした曲」と考えている人がいるようです。違うんですよ!ということが言いたくて今回このエントリーを執筆したわけですが。

そもそもキャバレーには二種類あり、映画版と舞台版で内容がかなり異なっているのですが、この曲の持つメッセージはどちらも同じです。参考までに舞台版のWikiから引用します。

 キットカット・クラブではMCがゴリラの着ぐるみを着た女性店員と世界中の誰も認めない愛について歌い踊る("If You Could See Her")。クラブの客からもっと心を開けと勇気づけられ、MCは「私の目を通して彼女を見れば、彼女は全然ユダヤ人ではない」として雌ゴリラを守る(容易に偏見の目で見ることを観客に気付かせる目的の台詞であったが、ボストン公演でユダヤ人団体から抗議とボイコットが起こり「彼女は全く醜く(Meeskite)ない」と変えた[24])

キャバレー (ミュージカル) - Wikipedia

 ちなみにオリジナル・プロダクションのレコーディング(39:50〜)でも最後のJewish部分がMeeskiteに変更されていました。

まあこのように昔から誤解を招いてきた曲なわけで、上のような議論が巻き起こるのも致し方なしといったところではあるのです。ただ、ちゃんと映画・舞台を通して見ればその奥にあるメッセージに気づくはずなんですけどね。あのMCの最後の台詞で、我々観客は今まで相手女性を「ゴリラ」として笑っていた自分たちがある種の偏見の目で見ていたことに気づかされて打ちのめされるという。そしてその経験を通して、偏見というフィルターがどこにでも存在していること、差別する側はそれに全く気づいていないことを身をもって思い知らされるというわけなのです。このメッセージはアラン・カミングがエムシーを務めたリバイバル版(4:33〜)ではより分かりやすく表象されていると思います。

先日YouTubeでこの曲の日本語版を聞いたのですが、最後の部分をやはり読み違えているような歌詞になっていました(日本版のプロダクションを見ていないのでなんとも言えませんが)。ネイティブにおいてでさえ物議を醸す箇所なのでどうなってるのかなと思って見ていたのですが、改めてこの曲の奥深さを感じましたね。

 

 

 

If You Could See Her

君の考えてることくらい分かるよ

世界中の数ある女性の中から

一体全体なんで彼女を選んだのかって

まあ第一印象から決めてたかな

それのどこがいいんだって?

僕の知る彼女を知っていたなら

君の考えも変わるはずさ

 

僕の目で彼女を見れば

疑問にも思わないさ

僕の目で彼女を見れば

きっと君も恋に落ちる、かつての僕のように

公衆の面前で一緒にいると

世間のうめき声が聞こえるけど

僕の目で彼女を見れば

奴らもそっとしておいてくれるはずさ

 

彼女のいいところ?

どこから話せばいいのやら

頭が良くて、賢くて、音楽を嗜む

タバコもジンもやらない、僕と違って

でも二人一緒に歩いている時に

僕が彼女の手を握れば奴らは鼻で笑う

だけど僕の目で彼女を見れば

奴らだってきっと分かってくれる

 

どうして放っておいてくれないの?

 

「紳士淑女の皆さん、

恋することは罪なのでしょうか

心のままに導かれた相手を

選ぶことなどできましょうか

われわれが求めているのは

ほんのすこしのご理解だけなのです

どうしてこの世界は

寛大に見守ってはくれないのでしょうか」

 

反対するお気持ちも分かりますよ

たしかにささいな問題ではないからね

でも僕の目で彼女を見たなら

「『ユダヤ人』には到底見えないけどね」